それは身体障害者と言う言葉なのです。
シンショウ、シンショウと言ってからかうのです
alexander hera價錢。
学校の先生が、差別用語を使ってはいけないと教える時に身体障害者と連呼している訳です。
生徒達には、差別用語を使うなと言いながら、先生自ら差別用語を使っている事になるのです。
この先、身体障害者という言葉も差別用語として消そうとするのでしょうか。
30人の子供がいれば必ず、ビリがいます。
ビリと言う事でいじめられていたとすると、大人たちや周り人達がそのビリの子を助けようとします。
そして、その子の順位が上がれば、ビリがいなくなった訳ではありません。
新たなビリが生まれるのです。
暴力にしても、本質が間違っているのです。
兄のやった行為によって、不良やいじめなど悪さをする者がいなくなりました。
それは、本来なら、やられていたであろういじめの対象者達がいじめられずに、過ごせた訳です。
兄が卒業すると、新しくやってきた校長と転任の先生方は、平和な学校に残されている力による風紀委員を否定し、押さえ込みます。
これで、すべての暴力的行為がなくなり、全国で一番理想の中学になると思ったのでしょう。
ところがその結果、この中学も他所の学校と同じく乱れ、暴力やいじめが横行し始めるのでした。
そして、私もその渦の中に巻き込まれてしまうことになります。
結局、先生達や父兄の力では何ともなら無くなってしまうのでした。
学園生活の本来の目的は、暴力やいじめが無くなる事です
詩琳。
唯一の抑止力がなくなると、暴走する者が現れるのは当たり前の事なのでした。
自由社会もルールの中にあり、それを逸脱した者は罰せられるのです。
警察その他の取り締まる物があるおかげで、平和はたもたれていると理解するべきでした。
きれいごとの招いた結果だったのです。
世の中というものは、きれい事だけになってしまうと、余計に乱れてしまいます。
これは日本に限らず、世界の歴史が物語っているのです。
今日の日本は、きれいごとがはびこりまくり、その結果、今の事件や事故、争いの基になっていると考えます。